小話:納屋町と水と酒

水の都、伏見。伏見はかつては「伏水」という表記もされていました。
本稿では、水やその加工品である酒と、納屋町商店街の関係に光をあててみます。

伏流水の恩恵

品質の良い伏流水が豊富に入手できることが、現在でも伏見の主要産業の一つである酒造業の発展要因の一つであることは間違いありません。そして納屋町商店街もまた、その恩恵を受けてきました。

酒造業の発展と共に、酒造会社をお得意様とする事業もまた発展していきます。酒造りの道具を提供する桶屋さんや竹屋さん、酒蔵の屋根瓦をふく瓦屋さんなどが伏見にはたくさんありました。納屋町商店街の魚屋さん(現在は廃業)は、かつて酒造りのために地方からやってきていた住み込みの蔵人さんたちのために、酒造会社の食堂に毎日たくさんの魚を届けていたとおっしゃっていました。

伏見の地下にある伏流水(京都水盆)の量は、琵琶湖の水量に匹敵するのだそうです。その京都水盆の出口にほど近い伏見の南西部は、かつては池や沼でした。現在農業地帯となっている向島や久御山は、巨椋池という巨大な池でした。現在は工業地域となっている横大路は、かつては横大路沼という沼でした。そのため伏見界隈では淡水魚が入手しやすく、川魚を食べる文化が発達しました。納屋町商店街には今でも川魚専門店が元気に営業中です。つい数年前まで大手筋商店街にも川魚専門店がありました。

川魚食文化の一例としては、お正月に食べる鮒があります。年末になると納屋町商店街には、遠方からお正月のお煮つけ用の鮒を求めてお客様がたくさん訪れます。夏の土用の丑の日の鰻もその一例で、川魚専門店の鮒新さんでは、一日千匹もの鰻をさばくのだそうです。また川魚を新鮮なうちに佃煮等に加工する、保存食の文化も育まれてきました。大豆と川エビを一緒に炊いた「海老豆」や「若鮎の木の芽煮」などがその一例です。

伏流水を使っているのは酒造会社だけではありません。上記の川魚専門店・鮒新さんにも井戸があり、汲み上げた地下水に魚を泳がせて鮮度を保っています。直接事業には関係ないでしょうが、納屋町商店街の某呉服屋さんにも井戸があるそうです。

港湾都市伏見

伏見を「水の都」という時、物流面からの視点も重要です。

大阪方面へは伏見の港から宇治川を下って淀川へ、京都方面には伏見の港から高瀬川を上って京へ。
伏見が関西の二大消費地と水路で結ばれた中継点であったことが、人と物が集まる交通・物流のまちとして繁栄してこれた要因となりました。納屋町商店街の「納屋」とは倉庫のこと。ここにも港湾都市伏見の名残が見て取れます。

酒造業の発展の背景には、港湾都市で寝泊まりする大勢の人たちに対するお酒ニーズがあった、という側面もあるでしょう。実際、現在も存在する伏見の酒造会社の一定数は、船宿業から出発しています。また原料の米を運びいれるにも、できあがったお酒を販売するのにも、輸送が便利な場所である必要があります。この点でもお堀や水路が多かった伏見は酒蔵の立地として適していました。

もともとは風光明媚な静かな土地だった伏見の地に港湾機能を持たせ、城下町を築いたのが豊臣秀吉です。伏見城の外堀の名残である濠川や宇治川派流、水害から町を守る太閤堤など、秀吉時代に行われた伏見の大土木工事の痕跡は、現在の伏見にもたくさん残っています。そして高瀬川を開削して京都と伏見とを舟運でつないだのが江戸時代初期。江戸時代の納屋町商店街は、こうした港湾都市の玄関口(のちょっと裏手の倉庫街?)として発展したようです。伏見に天下人が住み日本の”首都”であったのはほんの十数年ですが、もともと水が豊富であった伏見にそのとき都市インフラが作られて、そのうえで伏見の産業と文化が育まれてきた、そして納屋町商店街もまたその恩恵を受けてきた、と言えると思います。

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